トピックスInformation

2024.01.07

ニスコ進学スクール 平岡中央教室

北海道偉人シリーズ① ~北海道生まれの老中、松前崇広公~

こんにちは、平岡中央教室担当の小中谷です。

 

冬休み、長期の帰省をされた方もいらっしゃったのではないでしょうか。数名の塾生が、「松前に行くんだ~」と私に話してくれました。私も道南出身(八雲町)なので、道南出身の方に親近感がわくんですよね。

 

...と、いうわけで今回は松前が生んだ偉人、北海道出身のあるお殿様を紹介させていただきたいと思います。その名は「松前崇広」公。外様大名でありながら幕府政治に関わり、老中まで昇りつめた異色の人物です。幕末の松前藩に、名君がいたらしい、ということは聞いたことがある程度でした。どんな人物だったのか、しばしお付き合うのほどを。

 

【松前藩】

松前町は、北海道渡島管内にある人口約6000人の町。北海道唯一の城下町です。別名「北の小京都」とも呼ばれています。そこをかつて支配していたのは「松前藩」。徳川家康によって蝦夷島主として認められ、アイヌの人々と交易、その利益は7万石の大名と同じくらいだったそうです。

大名とは石高1万石以上、将軍から領地支配を認められた武士のことをいうのですが、松前は米がとれません。そのため、松前藩は正式な大名ではなく、1万石の外様大名と同格という扱いでした。

治めていた大名は松前氏、その流れを辿りますと、甲斐源氏武田氏の同族だったようです。あの武田信玄公と同族だったのですね!

 

【老中】

さて、ここで老中について。歴史の授業では、「老中は、徳川家に代々仕えた家臣の子孫である譜代大名がなるもの」と学習しますよね。江戸時代も中期から末期にかけての時期になると、外様大名でも老中に任じられるケースが見受けられるようになります。理由はいたってシンプル、英邁な人物であること、ただその一点です。

 

【松前崇広公のおいたち】

松前崇広公は、1829年、蝦夷地福山(松前の旧名)で第9代藩主の6男として誕生しました。れっきとした北海道生まれの殿様です。幼名は為吉といったそうです。長男が継ぐ当時で6男坊が後をつぐ、そうそうある話ではありません。松前家は短命な人物が多く、崇広公が相続した時、本家の次期当主候補はわずか6歳。そこで本家の血筋に近く、年長の崇広公が相続することになりました。

幼少期の崇広公は馬術や武術を得意としました。また、大名の子である身分を隠し、城下町や村に出かけて食事をもらったりと、なかなかの型破りな人物。そのせいか庶民の事情に詳しく、21歳で藩主になったときは領民から大歓迎されたそうです。

崇広公が藩主になったのは1849年、幕府の政策が異国船打払い令から薪水給与令へと、外国船への宥和政策に転換して間もない時期です。崇広公は江戸から学者を招き、蘭学だけでなく英語や兵学を積極的に学びました。庶民の事情にも通じた、学問もできる、立派なお殿様だったのです。

 

【日本最後の旧式城郭の建築】

 崇広公が藩主在任中、北方警備のために新たな城を築くよう幕府に命じられます。しかし。松前藩の財政は逼迫、築城費用はありません。崇広公自身の倹約をはじめ、お殿様の人柄を知る町人や商人の献金、家臣の給与一割カットなど財源を確保、やっとのことで築城にこぎつけます。城の完成は1854年、日米和親条約が結ばれた年でもあります。そう、下田と函館の開港が決まったあの年なのです。

 

【崇広公、幕政参加と最期】

 蘭学、英語、兵学に通じ、海外情勢にも詳しい崇広公を評価した幕府は、彼を海陸軍総奉行、陸海軍総裁という国内トップの地位につけます。そして、ついに崇広公は老中に昇進します。外様大名としては異例のことです。

 1865年、将軍徳川家茂に従って大阪へ―。ここで崇広公の運命が暗転。アメリカ、フランス、オランダ、イギリスの圧力により、朝廷のある京都に近い兵庫港を開港することに...。幕府は戦争にならないよう、老中であった崇広公と阿部正外にうまく断るよう命じます。しかし、開港を認めなければ将来の日本に禍根を残すと考えた二人は、独断で開港を受け入れようとします。これに激怒した朝廷は、崇広公と阿部老中の官位をはく奪、謹慎を命じます。そして、崇広公最後の仕事は、将軍家茂への諫言でした。

「万里の海をこえて来た使節団を打払う力がない以上、開港よりほかに道はありません。将軍も朝廷の命令のみに従うのではなく、職を賭して初心を貫くべきです」と。

 幕政から退き、松前に戻った崇広公は家臣への英語教育、写真撮影など穏やか日々を過ごしていました。しかし、謹慎開始から4カ月目の1866年4月、熱病により亡くなります。享年38歳。翌年には大政奉還、もうすぐ新時代というところで...。生きながらえていたら、北海道の開拓に尽力していたのでは...。目頭が熱くなります。

 

【広い見識を持つということ】

 普通なら外様大名は老中になることができません。しかし、時代は崇広公が地方の一藩主のままでいることを許しませんでした。一万石の小大名であっても、蘭学や兵学、英語を学んで知見を広めたことにより、異例の出世をとげることができました。しかし、その見識が権力を握る見識なき人たちに理解されず、用いられることがなかったのは歴史の皮肉としか言わざるをえません。

 グローバル化が進む昨今、思い込みやネット情報を鵜呑みにすることなく、自分の目で確かめ、見識を広げる、そういった姿勢を持ち続けたいですね。

 

(参考図書)

STVラジオ編『ほっかいどう百年物語 上巻』(中西出版、2018)

 

〔さいごに〕

 2024年があけました。冬期講習会は途中からの参加も可能です。年明け前の授業は振替対応をさせていただきます。

 冬期講習会受講者は入会金の全額免除月謝半額など特典もございます。

 兄弟姉妹が通塾している場合、月謝半額特典もございます。

 新年、気持ちも新たにニスコ進学スクール平岡中央教室でいっしょにがんばってみませんか?

◎冬期講習会概要

 →[詳細はこちら]

◎冬期講習会中テストのご案内

 →[詳細はこちら]

 

 

 

その他、ご不明な点はニスコ本部フリーダイヤル

0120―44-3759

までお問い合わせください。

スタッフ一同お待ちしております。

Category

ニスコグループからのお知らせ

教室からのお知らせエリア別教室

  • 札幌市
  • 道内

contactお問い合わせ

受付時間 月曜~土曜 10:00~22:00